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一橋大学大学院社会研究科 内藤正典データルーム
...内藤正典による中東・西欧マンスリーを中心としたニュース解説、「イスラームによるヨーロッパへの挑戦」をテーマのもと
COEプロジェクトにおいて制作した、各国政治家へのインタビュー、イスラーム組織の実態などの映像コンテンツの一部を紹介するサイトです。
アヤーン・ヒルシ・アリというソマリア出身の女性議員がオランダにいた。ソマリアで、父親から虐待され、望まぬ結婚を強いられ、夫からも虐待を受け、それを『従属=Submission』という映画作品で公開した。監督は、テオ・ファン・ゴッホ。彼は、この作品でムスリムを貶めたとして、激しい敵意にあい、2004年にモロッコ出身の急進的イスラーム主義者の青年によって殺害された。この事件は、日本でも大きく報道されたが、その脚本を提供したのが、ヒルシ・アリであった。
彼女は、一躍有名になり、オランダだけでなく、ドイツやイギリスでも講演し、イスラームの女性抑圧を批判し続けてきた。先の、預言者ムハンマド風刺画問題のときには、躊躇せずに描くべきだし、新聞なども掲載すべきだと発言した。反イスラーム運動を展開する女性の旗手という存在であった。
2002年からは、オランダで自由民主党(VVD)という政党の国会議員を務めていた。この政党は、「リベラル」政党と言われるが、この呼び名について、日本では注意を要する。日本でリベラルというと保守に対抗して自由を尊重する勢力とみられる。右派に対して、左派に近いとみなされることもある。アメリカでの用法も、これに近い。
この感覚が的外れなわけではないのだが、オランダで言うリベラルには、「押し付けがましい規範から自由であるべし」という意味合いがより強い。社会主義のような政治的イデオロギーの規範性に対しても嫌悪感をもっている。
オランダのリベラルは、一般に宗教勢力を嫌うが、これは、宗教というものが、人や社会に道徳的規範を押し付けると考えているからである。したがって、キリスト教勢力からも一線を画しているし、イスラーム勢力に対しては激しい敵意をあらわにする。現代の世界で、キリスト教会は政治的な力を失った一方、イスラーム勢力が、きわだって政治化していることが目障りで仕方ない。いわば、反イスラームの急先鋒となっているのが、リベラル政党のVVDなのである。
当然、オランダ人として「快適に」生きる自由を主張するから、移民や難民が多すぎることに批判的なのも、このリベラルである。誤解してはいけないのは、オランダに関する限り、リベラルほど難民・移民排斥感情が強い。イギリスBBCは、この政党をLiberal-conservativeと呼んでいる。
なぜ、外国人排斥を主張する政党に、アフリカのソマリア出身の女性が国会議員として所属していたのか。オランダの場合、キリスト教政党のキリスト教民主勢力(CDA)にも、保守的なムスリムの議員がいる。左派の労働党(PvdA)や緑の党左派(Groenlinks)にも、当然、移民出身の議員がいるが、彼らはイスラーム教徒であっても、宗教色の少ない世俗化した人たちである。こういう政治的環境のなかにあって、自由民主党(VVD)だけが移民議員を排除するというのは、「寛容」を掲げてきたオランダとしては、いかにも体裁が悪い。そこで、利用価値のある移民については、議員に登用してきた。
利用価値があるとは、つまり、ヒルシ・アリのように、ムスリムでありながら、リベラルでイスラームを敵視してくれる人物である。ただ、敵視するのでは、宗教差別と受け取られる。これもオランダでは、原則論としてまずい。キリスト教政党が力を持つ国ゆえに、生理的な反イスラーム感情を喧伝するだけでは差別とみなされる。それに、ナチス時代に多くのユダヤ人が強制収容所に送られ、命を落としたオランダでは、ユダヤ人勢力も強い力をもって、宗教差別に眼を光らせてきた。
だが、彼女は、イスラームが女性の人権をいかに抑圧するかという「生き証人」として証言してきたからこそ、発言には重みがあった。ムスリムからの反論に対しても、「だって、彼女がそう言っているじゃないか」という盾に使うことができた。自由民主党は、彼女を利用することによって、イスラームという宗教に対して差別的であるという非難、移民や難民に対して差別的であるという非難を、うまくかわしてきたと言うことができる。
ところが、あるテレビのドキュメンタリーで、彼女の経歴が虚偽であったことが暴露されてしまった。彼女は、故郷のソマリアから命からがら脱出して、オランダにたどりつき、亡命を申請して受理されていた。97年にはオランダ国籍を取得し、政治活動に乗り出していく。
BBCの報道によると、彼女は、オランダに来る前、ケニアやドイツに滞在し、いまも家族はケニアで裕福な暮らしをしているという。家族は、彼女が結婚を無理強いされたことなどないと証言した。そして、ヒルシ・アリ自身が、虚偽申請の事実を認めてしまったのである。彼女は、議員を辞職した。
これを受けて、移民・難民に対する強硬姿勢で知られる移民担当相のフェアドンクは、彼女が虚偽の申請によって亡命者として受け入れられ、国籍を取得したことを非難し、オランダ国籍を剥奪する決定を下した。移民担当相は、彼女と同じ、VVDの出身である。ヒルシ・アリは、今後、アメリカに渡り、共和党系のアメリカン・エンタープライズというシンクタンクに職を得ると伝えられている。
この報道に接したときの第一印象は、「いったい、なにが起きたのか」という困惑であった。まだ、正確な情報が十分に出ているとは思えないので、あくまで、現時点での推測を述べることにする。
リベラル政党である自由民主党は彼女を見限った。もはや、黒人ムスリムの女性で、しかも反イスラームの旗手である彼女を利用することさえ、厭わしいほど、ムスリム移民や難民に対する不満が社会に鬱積していることが推測できる。諸政党のなかで、移民・難民に対して、もっとも厳しい政策を主張するのが自由民主党であるから、ありうることである。2002年の総選挙で躍進したピム・フォルタウィン・リストは、リーダーのフォルタウィンが、投票日の直前に暗殺されたため、その後、党勢が弱体化したが、フォルタウィンの反イスラーム・反移民発言と、彼に対する熱狂的な支持は、寛容の国オランダの終焉を暗示するものだった。フォルタウィンは自由民主党を出て、さらに過激な自分の政党を作ったのである。その後、また同じような人物が登場して、オランダ政界の台風の目となっている。ヘイルト・ウィルダースである。彼もまた、VVDを出て、自分の政党を旗揚げして次の総選挙に臨もうとしている。
2005年、EU憲法条約批准の国民投票で、大々的に反対のキャンペーンを張り、貧しい東欧の加盟国のために、多額の負担を強いられると主張して喝采を浴びた。同時に、トルコのEU加盟に猛反対している。今年予定されている総選挙で躍進する可能性は高い。
自由民主党よりも、さらに過激な主張をするフォルタウィンやウィルダースのようなポピュリストが次々に現れる現象は、小国でありながら豊かなオランダにおいて、「寛容の限界」がコンセンサスとなりつつあることを示している。
ヒルシ・アリの追放劇は、国会議員(辞職した後だが)の国籍を剥奪するという極めて過激な結末を迎えた。注視しなければならないのは、この決定に対して、オランダ世論がどのような反応を示すかである。いまだ図りきれないところだが、静観するようならば、社会全体に、偽装難民など国会議員であれ、なんであれ、追放してしまえという強硬な排斥論が蔓延していることになる。またひとつ、ヨーロッパ諸国が、内向きに転向していることを示す事件が発生したのである。
同時に、彼女の転職先が、アメリカン・エンタープライズであることにも注意すべきである。アメリカという新天地で、反イスラーム・キャンペーンを続けるつもりなのだろうか。もし、彼女の発言が、一定の影響力をもつならば、イスラームとの衝突を激化させる種になるだろう。しかも、いたって「不必要な」衝突の種を撒き散らすことになる。